2018年1月18日木曜日

<阪神大震災23年>記憶と教訓胸に刻んで

 ◇高知市消防局・本山和平消防署担当次長

 ◇あの時、水さえあれば

 阪神大震災から23年を迎えた17日、県内でも犠牲者を悼む行事が行われた。未曽有の大災害に高知からも被災地に駆けつけ、懸命に活動した人たちがいた。南海トラフ地震に備えるため、あの日の記憶と教訓を胸に、それぞれの現場で奮闘し続けている。

(吉田清均、中西千尋)

 高知市消防局の本山和平消防署担当次長(54)は震災翌日から3日間、神戸市兵庫区などで消火活動に奮闘した。

 「揺れゆうで」。高知市の自宅で、妻に起こされた。強い横揺れが30秒ほど続いたが、「これくらいなら高知市は大丈夫か」と考えた。

 全国の消防に応援が要請された。当時は高知市南消防署所属のレスキュー隊員で、第1次派遣隊として被災地に向かった。黒煙が立ち上る市街地のテレビ映像と、同じ光景が眼前に広がっていた。同日夕、神戸市兵庫区に入った。炎はすでに街をのみ込み、熱く燃え盛る窯のようだった。

 現場で直面したのは水の問題だった。消火栓は断水状態、防火水槽も空っぽ。高知から乗り込んできたポンプ車2台に貯蔵できる計4トンの水はわずか約4分間の放水で使い切る。火災現場近くの川に何度も給水に行った。火にスコップで砂をかけて対処したが、全く太刀打ちできなかった。夜明けまで活動したが、鎮火さえできなかった。「あの時、水さえあれば」。歯がゆさは今も消えない。

 阪神大震災では、地震による火災の猛威を思い知らされた。東日本大震災では岩手県大船渡市に派遣され、津波被害を目の当たりにした。自然災害の恐ろしさを肌で痛感している。だからこそ、「消防の世界で生きる者として市民の生命と財産を守るため、自分にできることは何か」と自問し続けてきた。

 昨年9月、新たに開署した高知市北消防署で実際的な救助訓練が可能な施設の構想を立案した。また、南海トラフ地震で発生が予想される大規模な火災の被害を少しでも食い止めるため、大きな揺れを察知すると自動で電気を遮断する「感震ブレーカー」の普及を進めている。「広がり続ける火災が一番恐ろしい。防ぐことができる火災は少しでも減らすことが大事です」

 一歩ずつ着実に減災の取り組みを進めていく。

 ◇県警警備1課・山本正幸警備調査官

 ◇見たこともない現実

 県警警備1課の山本正幸警備調査官(53)は1995年1月17日朝、高知市内の自宅で今まで感じたことのない揺れで、目を覚ました。「跳び起きるくらいの揺れは高知で初めてだった」。そう振り返る。

 当時、四国管区機動隊第2分隊長。非常招集がかかった。隊員たちとともに、陸路で兵庫県の淡路島に向かった。被災地の状況は刻一刻と変わっていた。「西宮の被害が甚大だ。すぐそちらへ行け」。矢継ぎ早に命令が変更された。

 同日午後6時頃、淡路島でフェリーに乗り換えた。闇に沈む六甲の山並みが見えた。麓の市街地のあちこちで火の手が上がっていた。見たこともない現実に、緊張が高まった。

 港周辺では大量の泥が地面から噴き出していた。液状化現象だった。港から活動拠点となった兵庫県警西宮署までの道路は各地で寸断され、バスの車窓から見えたのは倒壊した無数の家屋。隊員約30人は息をのみ、言葉を失った。

 同日深夜から3日間、西宮市内で人命救助にあたった。倒壊家屋でチェーンソーやスコップを使っての人海戦術で少しずつがれきを除去していくしかなかった。余震も続き、作業ははかどらず、焦りだけが募った。

 全壊した西宮市内の民家の焼け跡で2人の遺体を発見したことがある。子どもを守るように母親が上から覆いかぶさっていた。2人を両手を合わせて見送った。無力感に襲われた。今も忘れられない現場だ。

 その後、西宮市から神戸市長田区で救助活動に尽力したが、生存者を発見することはかなわなかった。

 「阪神大震災は災害への考え方を改める機会になった。ここから全てが始まった」。23年が経過し、震災を知らない若手警察官も増えた。「ふるさとに生きる人たちを守りたい」。南海トラフ地震の発生が懸念される中、警察官として使命を胸に、経験を次世代に継承していこうと考えている。

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