なぜ教育勅語にたどり着き、首相の名を冠する小学校を造ろうとしたのか。国との交渉で「神風」は吹いたのか――。朝日新聞は学校法人「森友学園」(大阪市)の籠池泰典・前理事長にノンフィクション作家の菅野完氏を通じて取材を申し入れ、籠池氏は5月8日と18日、計10時間ほどにわたってインタビューに応じた。あくまでも籠池氏の主張だが、国有地売却問題の真相解明につながる証言とみて、その生い立ちから現在までを語った言葉を紹介する。
1953年2月、籠池氏は瀬戸内海を望む高松市の港町で生まれた。本人によると代々、海運会社を営んでいたが、籠池氏が小学生の時に事業が行き詰まり、大阪や兵庫を転々とすることになった。
「海は近かったから。小さい時から、糸たらしたらカニが釣れるって感じでやってましたから。船の音も好きだし、船員さんのいなせな声も大好きだし。はっぴ着て、やくざの人が。ずっとあれもかっこええやないの、と思ってた」
「海運陸運業、大きかったんですよ。(高松市を離れたのは)小学校の5年の終わりか、6年のはじめかな。引っ越したゆうより、倒産した。戦争中に船がたくさん沈んだから。戦争がなかったらまた違っていたかもしれん」
「1年間ほどは、父母とも別れてた。父の兄の家に預かってもらって、それから親に大阪にひっぱってもらった」
籠池氏は高校卒業後、関西大学に入学。「森友学園」の創始者、森友寛氏(故人)の娘だった妻、諄子氏と在学中に知り合った。大阪・心斎橋の百貨店でのバイトがきっかけだったという。
「僕は催し物売り場。彼女は1階の真珠宝石売り場でしたか。僕が22歳くらいの時に、(諄子氏は)19歳だったのかな。ちょっと次の休み時間にお茶に行きましょうかという感じで行くわけですよ。心斎橋のあたりは、今よりももうちょっと家族的な雰囲気の喫茶店が多かったんです」
籠池氏は大学卒業後、奈良県庁に就職した。そこで見たのは「日本の原点」だという。
「はっきりと自分でわかってなかったんだけど、何とか社会に役立つことはしたいなあというのが原点にあったから。奈良県庁の行政職一般上級を受けたら合格しちゃった」
「まほろばの国、奈良やから、自分自身の歴史観というかね、何というのかな、日本という国の原点というのかな。県庁があるとこいうのは高台で、東大寺もあって、いいとこでしょ。原点というのは色んな意味があって、ここから色んなことが発生していったんだなあと思いましたね。美しさとか、おごそかさ、のどやかさいうのは感じていた」
■「教育勅語見て、すー、すとんっと入ってきた」
就職から2年後、籠池氏は諄子氏と結婚する。奈良県庁の仕事に「未練」があったという籠池氏。だが、結婚から約5年後には県庁を退職。森友寛氏が経営する幼稚園で働き、教育者としての道を歩み始めた。
「給料安かったから。ちょっと無理やろって感じだったんですよね。でも(寛氏が)君ら結婚するなら、もう結婚せなあかん、と。生活できるかなあ、と思いながら結婚したんやな。4月29日、(昭和)天皇誕生日に結婚したんですよ、絶対に忘れないように。右翼でもないんよ、普通やったんやけどなあ」
「先代もどちらかというと、普…
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