薬物はネットの普及とともに、使用者の“裾野”が広がりつつある。その存在は、われわれの日常のすぐ隣に迫り、いったん手を伸ばせば、そこには出口のない闇が待っている。
アイス、野菜、コーク……「遠い存在」が「誰もが手を出しやすい存在」に
今から十数年前のインターネットの急速な普及が薬物の流通を大きく変えたと、田中絵美子(40)=仮名=は感じている。それまでは、いわゆる暴力団関係の「怖い人」に接触して入手するしかなく、薬物は多くの人にとって「遠い存在」だった。
だが、ネットは、暴力団関係者と末端の顧客を結ぶ無数の密売業者を生み、薬物を、誰もが簡単に手を出しやすい存在へと変えてしまった。
《アイス0・3 13000》
《野菜 ブルーベリー1g ¥5000》
《コーク0・5 18000》
ネット上には、覚醒剤を指す《アイス》、大麻を意味する《野菜》、コカインの《コーク》という隠語が飛び交い、売買が繰り返されていることが容易にうかがえる。
田中は、10代のころに覚醒剤に手を出した。ネットの売買に手を染めたころ、小学生の2人の息子を女手一つで育てていた。掲示板に複数の店舗があるように装い、他人名義の携帯を借り、足がつかないように工作。アクセスしてきた顧客には、競合する暴力団関係者の目が行き届かず、人混みに紛れることができる都心を受け渡し場所に指定した。
「手っ取り早くもうけられたし、リスクもほとんどなかった」。田中は20代後半から数年間、売人をしていたが、一度も逮捕、摘発されなかった。学生、主婦、会社員など、職業や老若男女を問わず、ありとあらゆる人に薬物をまいた。
40人に1人「使った経験」
国立研究開発法人「国立精神・神経医療研究センター」などの研究チームが平成27年、15歳以上64歳以下の男女を対象に行ったサンプル調査によると、何らかの薬物を一度でも使った経験がある人は推計約222万人に達する。
生涯経験率は2・4%。およそ40人に1人が何らかの薬物に手を出している計算になる。厚生労働省の集計では、28年の薬物関連の摘発者は1万3841人で高止まりが続き、押収量も28年は覚醒剤(1521・4キロ)やコカイン(113・3キロ)は過去10年で最大を記録している。
はびこる薬物。「ネットやSNSの普及で、誰もが手軽に薬物を入手できる環境になってきている。取引自体も見えにくくなっている」。薬物捜査に長年携わる捜査員は、こう分析する。
こうした動向は、日本だけの問題ではない。国連の国際麻薬統制委員会は2012年の年次報告で、ネット取引の取り締まりを各国政府に要請している。
「すでに薬物使用を開始したが、薬物依存に至っていない薬物使用者に対する介入が十分ではない」。国立精神・神経医療研究センター心理社会研究室長の嶋根卓也は、歯止めが利かない現実に警鐘を鳴らす。
息子の「弁当作り」に“気合”入れるため自らも覚醒剤に……
売人となった当時の田中も薬物の力を借り、使用を続けた。覚醒剤を体に入れると、不眠不休でもいられる。息子たちが中学に上がり、毎日の弁当づくりに朝5時に起きる生活の中で、気合を入れる意味でさばいていた覚醒剤を打った。
長男と次男は学年で3つ違う。トータルで6年もの間、毎日のように弁当づくりに追われた。田中自身も変な言い訳だと感じていたが、弁当づくりを理由に「クスリを使わなきゃ」と思っていたという。
ある朝、いつものようにトイレで注射器を腕に刺しているとき、偶然、トイレの扉を開けた息子に現場を目撃された。うすうす母が薬物に手を染めていると気付いていただろう息子は決定的瞬間を目撃し、目にいっぱいの涙を浮かべた。その表情は、今も頭の中から消せない。
それ以来、息子は一切、口を開いてくれず、学校から届くはずの保護者会、部活動のお知らせといった通知物を渡してくれることはなくなった。
「あんなに情けないことはありませんでした。でも誰に相談したらよいかも分からず、結局、自分ではやめることはできませんでした」。そして、田中の人生はさらに暗転することになる。
恵まれた環境で育ったがバブル崩壊で暗転
母として2人の息子に愛情を注ぎながら、覚醒剤の売人にまでなった田中絵美子(40)=仮名=は幼少期、いわゆる恵まれた環境で育った。
長距離トラックの装飾などを手がける自営業の両親の下で、バレエやピアノも習わせてもらっていた。だが、その生活に影が差し始めたのは、日本経済が長く低迷することになるバブル崩壊だった。
会社は傾き、父は毎晩のように飲み歩くようになり浮気も発覚した。「うちの夫がそんなことするわけないじゃないのよ」。受話器を握りしめ取り乱す母の姿も目撃した。
以降、家庭内は、すさんでいく。両親のけんかは絶えず、家では毎晩のように食器が割れる音が響いた。「大丈夫だよ」。田中は、2階の子供部屋でおびえる妹をなだめることしかできなかった。
小学5年のときに両親は離婚。妹とともに母に引き取られ、習い事にも通えなくなった。だが、懸命に働く母の姿を見ると、甘えることなどできはしなかった。「ママのことを考えたら泣いちゃいけない」。必死で家事を手伝い、つらいときは風呂場でシャワーを流しながら泣いた。
だが、その反動なのか、中学に上がると悪い仲間と付き合い、家に帰らないようになった。中3のときに妊娠。相手は28歳の既婚者だった。長いスカートをはいて堕胎できない時期まで隠し、母の猛反対を押し切って長男を産んだ。
その後、16歳で結婚、17歳で次男にも恵まれたが、夫はギャンブルにのめり込み、暴力をふるうようになった。結局、わずか18歳で結婚生活は破綻を迎えた。
トイレで覚醒剤打っているのを息子に目撃され……
「クスリ」に出合ったのは、そんな時期だった。2人の息子を育てるため、キャバクラで働き始めたが同僚に「元気になるよ」と勧められた。確かに、覚醒剤を「キメる」と、先行きへの不安や怖さが消えた。
食事も睡眠もとらず打ち続け、体重は30キロ台半ばまで落ちた。すぐに仕事ができない体になり、生活保護を受給。それでも、クスリを求め、自身も稼げる売人にまで身を落とした。
以来、息子には最大限の愛情を注ぎながらクスリに溺れ続けた。息子たちが小学校にあがるときなどの節目にやめようと思ったときもあったが、結局は「もういいや、うまく使っていこう」と開き直った。
その生活も、トイレで覚醒剤を打っているのを息子に目撃され、終わりを迎えた。さらに、当時高校1年の次男が自室で友人らと遊んでいるとき、変な臭いがした。友人らが出ていった後で部屋を入念に調べると、大麻草にパイプ、危険ドラッグが出てきた。
因果応報−。その言葉が痛いほど身に染みた。「この子を殺して死のう」。そう決意し、包丁を次男に突きつけたが、「オレは生きたい。やる(死ぬ)ならママだけやって」と振り払われた。自暴自棄になった田中はそのまま風呂場へ行き、手首に包丁を振り下ろして自殺を図った。幸い一命を取り留めたが、施設に入所させられるなどし、家族は散り散りになった。
その後、田中は覚醒剤に溺れることもあったが、最終的には奈良の施設にたどり着き、約2年8カ月にわたってクスリを断ち、依存症者を支援する側に回る。今年に入り、長男と次男とも顔を合わせた。すぐに関係を取り戻せるわけではないのは分かっているが、「初めて(薬物が抜けた)しらふの状態で『ごめんなさい』と言えた」という。
施設の研修などで長時間車を運転するときなど「ここで一発入れたら楽だろうなと思う瞬間は今でもある」。だが、住むところがあり、温かい布団で寝られ、周囲と笑える。そんな当たり前の生活が幸せだとやっと気付けた。薬物の世界では、自分から支援施設を頼るのは全体の1割。残り9割は第三者が何らかの形で関わる。田中はいま、償いの日々を送り続けている。「これまでは自分で使うだけでなくクスリを世の中にまいてきてしまった。一人でも多くの人を施設につなげサポートしたい」
(敬称略)
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