2018年5月1日火曜日

「底辺校出身の東大生」批判に執筆者が応える 「田舎を蔑視」は誤解

衝撃をもって受け止められた、阿部幸大氏による「教育と文化の地域格差」に関する論考「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」。「地方には、高等教育を受ける選択肢や機会そのものが不可視になっている層が少なからず存在する」という問題提起は、多くの読者の共感を得ると同時に批判をも呼び、議論はなお収まらない。

膨大な数にのぼる反響をふまえて、続編をお届けする。

ぜひ最後まで読んでほしい

前回の記事が想像以上に大きな反響と議論を呼んだため、本稿は連載形式をとることになった。さしあたり今回は、前回の記事に対していただいた反論や疑問に応答する。

反応はあらゆる媒体にわたって膨大な数にのぼっており、とてもすべてに目を通せたわけではないが、以下では、とくに重要だと思われるいくつかの指摘をピックアップして、できる範囲でお応えしたい。リアクションの総括には「現代ビジネス」編集部の担当者も協力してくれた。ありがとうございました。

最初に内容を概観しておこう。

まずは、謝罪しなくてはならない点がいくつかある。具体的には、釧路を含めた田舎にある店舗や施設、あるいは個人などを、あたかも存在しないかのごとく記述したことについてである。田舎を攻撃することなど、当然ながら、私の目的ではない。なぜそう聞こえる書き方を選択したのかも説明する。

つぎに、いくつかの批判・反論に対してコメントする。もっとも激しい批判は、都会からではなく、田舎(を知る人)から提出されており、とくにその意味について考えることにしたい。これは私には、田舎の内部の格差に起因するように思われた。

さらにインターネットの話にふたたび触れ、総括に入る。最後のページは重要なので、ぜひ読んでもらいたい。

本論に入るまえに、大前提として述べておきたいが、前記事に対してツイッターや記事へのコメントで寄せられた反応の大部分は「私が長年思っていたことを言語化し周知してくれた」という賛同であり、さらに注意してほしいのは、これらはおもに「田舎と都会の両方を知る人」から発せられている、ということである。

つまり、もっとも大きな格差を味わっている人々、田舎しか知らず、その格差の存在にさえ気付きにくい人々の声は、まだまだ上がっていないのだ。

以下の議論は、そのことを念頭に置きつつ読んでもらえればと思う。

「否定された」と感じた方へ

前回、私は「田舎と都会」という大きな二分法で議論を立てた。私が意図したのは、なによりもまず、地域格差という問題の提起と可視化そのものであったためである。

この「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになったのだ。

ただし、私は本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである(前回の記事が「虚偽だ」という意見に賛成の人は、本稿を読んでから、もういちど読み返してほしい。まったく違って見えるはずだ)。しかし、それがうまく読み取ってもらえなかったということは、私の書き方が悪かったということだ。

まずはこの点について、特定の団体や個人にかぎらず、田舎で一生懸命に暮らしている人々、あるいは田舎だからこそできることを模索し挑戦している人々が、その存在や試みを無視され否定されたと感じたとすれば、それは心から謝罪するしかない。まことに申し訳ない。

私とて、むろん、釧路市をふくむ田舎を敵視・蔑視していると誤解されるのは本意ではない。たしかに十代の私にとって、釧路はなんとしてでも「脱出」すべき場所だった。私は情報と文化に飢えていた。しかし、田舎に生まれなければ現在の自分はありえないのだし、中高ではいまだに私淑している恩師にも恵まれた。

私にとって地元は、愛憎の相半ばする親のような存在である。田舎から都会への移動を経験した人の多くがそう感じていることだろう。私は帰省のたびに母校やお世話になった人々を訪問し、授業や講演のようなことをしていることも付記しておく。

だがこうした補足が、前記事の根幹にある主張を覆すわけではない。強調したように、地域格差ゆえに機会を与えられずにいる人々は、まぎれもなく、大量に存在しているのだから。

この謝罪によって、「ほら、やっぱり田舎にだって大学も美術館もあるじゃん」ということにされてしまう事態を私は懸念している。「田舎にも〜がある」という事実は、それが都会に「ある」という事実とは、まったく比べ物にならない、ということを強調しておきたいと思う。この点についてはもう少し詳しく述べたいのだが、稿を改めよう。

ほんらい、こうした議論は社会学者の仕事であるはずなので、「門外漢がいいかげんなことを言うな」という専門家からの叱責には甘んじるしかないが――ただし地域格差を研究する社会学者からはむしろ賛同を得ている――しかし、私のような門外漢が個人的な経験を語るだけでこれほどの反応が噴出したという事実によって、やはり「田舎と都会」の二分法で語りうる巨大な問題が厳然として存在すること、そしてそれが不当に放置されていることは、じゅうぶんに示されたはずである。

田舎の中にも格差がある

つづいて私が取り上げたいのは、「私も田舎の出身だが、こんなことはありえない」という反対意見である。釧路を直接に知る人々、あるいは釧路と同程度か、釧路よりも規模の小さい市区町村で育った読者からの反応も含まれているようだ。

これは田舎を知らない人々からの反動的な否認とは性質が異なるので、応えておくべきだろう。

まず感想を述べておきたいが、私は彼らからの批判にもっとも心を痛めた。都会人に無視されるのはまだいい。そして田舎しか知らない人々は格差に無自覚であることがおおい。したがって、この批判を寄せた人々こそは、おそらく田舎と都会の両方を知る、もっとも私の意見に賛同してもらいたい層だったのだ。

では、田舎も都会も知っている人々から厳しい反論が寄せられたのはなぜなのか。

これは田舎の内部に存在する、また別の格差に起因しているように思われる。

前記事では田舎と都会という二分法を強調したので、この問題には補足的に言及するにとどめざるをえなかったが、もちろん、田舎の問題とて複合的である。都会から同様に地理的に隔てられた田舎であっても、経済的な格差、親や親戚の学歴、学校や先生の教育方針、などなどが絡み合って各人の大学進学可能性は決定される。

したがって、田舎者のあいだにも認識の差があるのは当たり前である。つまり上述の意見が示しているのは、田舎の情報強者にも田舎の情報弱者は見えていない、という事実だ。

このことは私にとって盲点だった。私は北海道全体で見ても上位とされる高校に進学したので、田舎者としては情報強者の上澄みに属していたと信じていた。だが、私のような「高校生活の後半まで大学受験が視界に入らない人」の存在は、「大学進学は当たり前と思っていた」高校生の眼中には、入っていなかったのだ。

これはイジメを知らない人間による「うちの学校にはイジメなどなかった」という意見に似ている。あるいは、高校に進路指導が存在することが私の意見と矛盾するように感じられるとすれば、それは「カウンセリング室があるのにイジメられていたのはおかしい」と主張することに近い。

それは高校のせいではない、お前のせいだ、と思われるかもしれない。それはたしかに高校の責任ではない。だが、私は高校を責めているのではない。私の趣旨は、そのような無知な若者を生み出している構造こそが地域格差なのだ、ということである。自己責任にすべてを還元しようとする議論もまた、「イジメられる奴が悪い」という論法と大きく違わないだろう。

では私のような無知な若者は、統計的には無視してもいいような、ごく特殊な情報弱者だったのだろうか?

そうではないだろう。田舎の内部にこのような格差が存在し、かつ、私がけっして特殊な少数派ではないことは、繰り返すが、私の記事が自分たちの鬱憤を言語化し代弁してくれたというリアクションが大多数だったことから、明らかであるように思われる。

もしかすると私は、母校の高校においては大学進学の知識に関して最下層に属したのかもしれない。だが、そもそも私は自分の通っていたような成績上位の高校だけを問題にしているわけではないのだ。

こうした反論の多くは「田舎を馬鹿にするな」という憤りから発せられたようだ。自分が「田舎者」に属すると考える人がそのように感じる気持ちは、よくわかる。

だが実際には、田舎を馬鹿にされたと感じた人々、感じることが「できた」人々は、田舎の情報強者、さらにそのなかでも最上位の上澄みに属していた可能性が高いように思われる。

どのような種類の格差でも、恵まれている側はそのことになかなか気が付かないものだ。ましてそれが目に見えない意識の差なら、なおさらである。

私の家族と環境のこと

田舎の内部に存在する格差をもう少し具体的に見てもらうために、補足もかねて、いくつかの私個人にかかわる極端な例を紹介してみたい。

第一に、私の父親が小学校中退であるという記述を奇妙に思った読者もいると思う。誤解を解く必要もあるので書いておくが、私の亡父は1925年に国後島で生まれており、学校に通っていない。ただし、数年間は出生届も提出されていなかったらしく、正確な年齢、誕生日、そして出身地も不明だった。

これは「田舎では普通」といった類の事例では、さすがにない。しかし、世の中にはいろいろな人、いろいろな家庭が存在するのだ。

第二に、私の周囲には平仮名を正確に書けない大人が複数存在した。彼らは1960年代のうまれである。日本には、そうした人がまだ歴然と暮らしている。その子供たちは私と世代が変わらない。

もう一つだけ挙げよう。前記事でも触れたが、私の通った中学は私が入学した頃からかなり治安が改善していたものの、それでも複数名は犯罪によって消息を絶ち、10人弱は高校を1年以内に退学になり、私は仲間と頻繁に他校との乱闘事件を起こしては交番で説教を受け、教師は毎日のように個室で生徒を殴りしばしば大怪我を負わせる、といった状況だった。他にも、前回「サバイバーズ・ギルト」と書かざるを得なかったような、ここにはとうてい書けないことが多々ある。

こうした「極端な」事例をあえて紹介するのは、田舎の下位層、「底辺」をまったく知らない人々の考える「普通」が排除し不可視化している人々の存在を、すこしでも認識してもらいたいためだ。

これらは田舎に住んでいた経験があるからといって、必ずしも全員が知ることのできる現実ではない。じっさい、私と中学の同級で、私と同じ高校に進学した者は、上述のような事実の全てを知っていたわけではないだろう。ことによると、彼らは私と違って中学時代から大学進学を意識していたのかもしれない。

もちろん、平仮名が書けない人などは、それこそ統計的にはごく少数である。だが問題はそこではない。そんな人など「いくらなんでも今の日本に存在するわけがない」と本気で信じてしまう「常識的」な判断は、私の書いた記事を――つまり私の人生を――単なる虚偽としか思わないような態度へとまっすぐに繋がっているということ、これが問題なのである。

前記事に対する批判的反応には、「話を盛ってるだけ」という雑感による攻撃が、おそらく数としてはもっとも多かった。それゆえ、さらなる具体性をもった私の(恥ずべき)個人情報を、数値を含めてこうして公開することにした次第である。

「常識」を当たり前に生きることができる幸運に恵まれた人々にとって「底辺」が想像しにくいのは致し方ないが、誇張したところで何になるだろう。私が実名も顔も出身地も立場も明かしてこの記事を書いていることの意味を考えてみてほしい。そして社会学者でもない私には、自分の生きた過去しか武器がない。

私たちの想像力には限界がある。たとえ同じ空間で何年も一緒に過ごしたとしても、他人が何を考えているのか、家庭でどんな暮らしをしているのか、教室の外で何をしているのか、私たちは知りえない。そのことを忘れてはいけないだろう。

インターネットは有効なのか

前回の記事で強調したにもかかわらず、「いまはインターネットがあるから事情は違う」という意見も多数見られた。

たしかにインターネットは田舎を救いうるかもしれない。だがインターネットがすでに田舎の問題を解決したかといえば、それは間違いなく否であり、近い将来に解決するかというと、それも否であると思われる。

この項目は「田舎者」というより「情報弱者」の問題になるが、再三述べているとおり問題は重層的であり、また田舎者は基本的には情報弱者であることを強いられているので(それが前回の趣旨だった)、共通の問題として話を進める。

前回の繰り返しになってしまうが、インターネットで自分に必要な情報を収集するというリテラシーは、かなり高度なものである。

私は前回の冒頭で、「ググる」習慣があること、余暇を文化活動に費やすこと、大卒という学歴を普通と感じること、この3つを文化と教育の指標として並列した。日本の全人口における大学進学者の割合は半数ほどだが――記憶してほしいが、大学に「進学」するだけで半分より上なのである――その大学進学者内の最上位層においてさえ、たとえググったところでウィキペディア以上の情報に辿り着く人は、そう多くないのである。

そして私は、必要な情報からさらに遠く隔てられた田舎の話をしている。田舎では地域格差を自覚すること自体が困難であるのに、その格差を自力で解消するためにインターネットを活用することができる人など、まれであるというか、ほとんど矛盾している。格差に気づくこと自体に高度なリテラシーが必要なのだから。

この比較も役立つかもしれない。たとえば、この記事をスマホやPCで読んでいるあなたは、日本からアメリカに留学するために、インターネットを使って必要かつ十分でしかも確実な情報を集めることができるだろうか? やってみるとわかるが、これはかなり困難である。だが田舎者が都会のことを調べるほうが、もっと難しい。

しかし、ほんとうに、たとえばPCを使ってメールで必要書類を添付して送るくらいのリテラシーは今や常識だと信じている人々が存在することには驚く。じっさいに教えるとわかるが、こんなことは東京の大学でさえ新入生の多くは慣れていない、かなり高度な作業である。

大学1年生に初等文法や四則演算を教えなおす行為を揶揄する投稿をしばしば見かけるが、私には大学生の学力低下よりも、それを笑える人々の認識の甘さが問題に思える。こうした認識を改める必要がない環境にしか身を置いたことがない人というのは、ふたたび前回のフレーズを用いれば、いやはや、なんという特権階級なのだろう。

「ルサンチマン」?

私は前回、すでに「弱者同士で対立しても意味がない」と強調した。しかし、反対意見は「こんな田舎なんてないでしょ」という消極的な否認と、「田舎はそんなんじゃない」という積極的な怒りとに分かれ、重要なので繰り返すが、もっとも私が賛同を得たかったはずの存在である後者の一部が、もっとも苛烈な反論を展開する皮肉な事態になってしまった。

これは、文化・教育の地域格差に対する社会の認識があまりにも不足しているため、現段階では仕方のないことであるだろう。だが、もう一度言っておきたい。田舎者どうしでいがみ合っていたのでは、まったくもって本末転倒である。われわれは田舎の状況の改善のために、団結し連帯しなくてはならないはずなのだ。

勝手な推測だが、「田舎を馬鹿にするな」と主張した人々の多くはインテリであり、彼らこそ地域格差の改善のカギを握る、もっとも重要な層なのではないだろうか。

田舎者の「鬱憤」を代弁、とさきに書いたが、私の田舎に対する態度はルサンチマンにすぎない、という意見も多数見られた。文章のトーンが呪詛に接近していたとすれば反省したい。

だがしかし、私が恥をしのんで個人情報まで晒しながらこうして「プロパガンダ」している理由は、格差を告発するためなのであって、格差とは、とりもなおさず、不満以外の何物でもないではないか。私は格差に怒っているのである。

そして、十代の頃は田舎に向けるしかなかった私の不満と怒りは、いま、田舎に対してではなく、地域格差という現実、そして田舎の実情を無視しようとする態度、それらへと向けられている。

種は蒔かれた

最後になったが、ところで、なぜこのような個人的な体験を紹介し雑感を述べているにすぎない私などの記事が、数日で200万PVなどという反響を呼んだのか。

それは、前回も書いたが、日本では地域格差という問題が、とにもかくにも圧倒的に放置されてきたからなのだろう。それがなぜなのか私にはわからないが、この問題を指摘することは、ほとんどタブー視されているようにさえ見える。大きな声で主張する人が誰も居なかったのだ。

地域格差の問題の指摘は、まだまだ抵抗に遭うだろう。問題の告発はかならず反動をうむ、ということは、本稿の読者なら知っていると思う。現在、世間はそのようなニュースで溢れている。

だが問題の種は蒔かれた。これからは私のような「極端な例」のみならず、別の経験者が、あるいは専門家が、そして都会しか知らない賛同者たちが、根気よくその芽を育ててゆくだろう。

私はあなたにもその一人になってほしい。そのためにこの原稿を書いている。

Let's block ads! (Why?)

http://news.livedoor.com/article/detail/14655196/

0 件のコメント:

コメントを投稿